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開発秘話その2 引き算足し算のデザイン

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ヌード開発秘話①で引き算足し算のデザインとは何か?の予告をちょっとしたので その話をしようと思う。
ピニンファリーナというイタリアの会社をご存知だろうか?意外にも知っている人は少ない。
しかし、プロダクトデザイナーでこの会社を知らない人はいないだろう。フェラーリのデザインをしている会社だからだ。車に興味が無い人でも
フェラーリの名前位は知っているだろう。僕は昔、美津濃スポーツと契約をしていた頃、ピニンファリーナのカロッツェリアに行ったことがある。
その時にもらった名刺はちょっとした自慢の宝物だ。名刺にはPAOLO PININFARINA とあり、当時の肩書きはMANAGING DIRECTOR とある。
日本語では常務と言う意味
PAOLO PININFARINAさんは1958年生まれだから 僕よりも一つ年上なだけ。創立者のBattista “Pinin” Farinaの孫に当たる人で、2013年現在はピニンファリーナ社の最高責任者である。
ピニンファリーナと言えば有名なのはカーデザインなのだが、デザイン会社なので実は車以外にもいろいろなデザインを手がけている。
その当時は僕は美津濃のゴルフクラブ開発の件で美津濃社員と同行していた。
PAOLO PININFARINA本人がまあ簡単な英語で紹介してくれたが、うちの会社に日本人のデザイナーがいるよ。凄く頑張ってるよと言っていた。その日本人はだれあろう、奥山清行さん
だったに違いないと今思えば思う。奥山さんの著書が出ている 2007年発行でフェラーリと鉄瓶 という著書だ。懐かしくもあり、僕は迷わず購入し、その著書を読ませていただいた。

彼がその本の中で書いることがあるのだが 激しく共感する部分があるので抜粋して紹介しよう。
イタリアのデザインというのは造形やセンスで決定されていると思われがちだが、日本のデザインと同じように、膨大なマーケティング資料を要素にして組み立てられている
機能性や用途に応じた適応性の追求、価格、安全性、そういうものが客観的資料で組み立てられて、全体のデザインが組み上がって行く。
日本デザイン開発もここまでは同じである。だが、日本のカーデザインがなぜあのようにセンスが悪いのか?

奥山さんは造形的デザインは商品の最後にまとめられて行く個人のセンスの問題であり、色々な人間が関わってやるべきではないと言う。
『それは個人の卓越した才能に任せるべきである』という。つまり、日本のように部長やら、課長やら、営業やらが会議で集まって、デザイナー以外の人間が複数でああだ こうだと討論しながら作るべきではないと言う事だ。
そして、クリエイティブの仕事とは会議の中では出て来ないという 時にはデザイナーが、コーヒーを飲みながらナプキンに描いた物がすばらしいアイデアであって、そういう風にデザインが
突然現れて出来上がる事の解っていない人間が会議で集まってああだこうだとデザインを評価すべきではない そういう日本のやり方はデザイナー個人の能力や魅力を消してしまう
と言うのが奥山さんの主張だが、僕も全くその通りだと思う。
もちろん イタリアでもチームに別れてスケッチを書いて、先攻されてデザインが決定する。勝利したチームは一年間仕事が任せられると言うそんなやりかたで開発して行くのだが、先攻されたチームにデザインは完全に任せてしまう。

ピニンファリーナ社の基本的概念は美しい物を追求すると言う事。実にシンプルである。美しいだけでは駄目だが、機能、価格 耐久性がもし同じなら
人は最終的には 美しい物を選ぶ つまりは、最終的には美しいものが売れると信じている。というのである。
問題は、なにをもって美しいとするのか?と言う事で、これは難しい問題だ。 だって、美しいと言う事は何なのか?これに明確な答えを人類史上だれも明確な答えを出した人はいないのだから。しかし美しい物は確かに存在する。
そして、とにかく美しく無ければそれは駄目だという基本的な揺るぎない信念みたいなものがピニンファリーナにはある。奥山さんの主張は、
美しいとは、黙っているだけでは解らないと言い、キチンと、我々の作っている物はなぜ美しいのかと主張しなければ駄目だと。

また大量生産と少量生産の違いについても書いてるが、大量生産は、価格を低くし、大衆に広める為に同じ物を大量に作る事だといい、反して、少量生産とは、大量生産では出来ない技術の追求
たとえば、フェラーリの強烈な車の馬力に対して耐える事の出来る構造や美しさ。そういうものにこだわることが出来ると言う。 そしてお客さんが受注して2年もまってくれることも少量生産ならではで、また金型などの開発リスクが少なくて済むと

そのかわりに少量生産では、 と彼は注釈を加える その代わりにブランドは大切にして行かなければならないと。ブランドとは何か、決して作家的なモノであってはならない。ブランドに求められる物は作家性ではなく普遍性で無ければならないと。 常に新しいが揺るぎない普遍的なモノ作りとそれに伴う伝説的ブランドイメージがそこには無ければならない。
残念な事に、ブランドイメージを強烈にする為には日本にはその土壌が薄れて来たと彼は言う。日本人はアメリカの文化を取り入れ過ぎ、個性が消されてしまった。人間も主張が足りない。いつの間にか大切な物を忘れてしまった。
モノ作りの観点から言えば、それは具体的には何かと言うと、切り捨てるという美だと言う。元々日本は、切り捨てる美を文化として生活をしていた。もうこれ以上何かをはぶいてしまったら、もう何も無くなるという日本独特のデザインのあり方だ。

僕の考えでは、例えば、障子がそうだ。障子は木の枠組みに、紙を貼って作る。ただそれだけの部屋を仕切る壁?のようなもの。西洋のドアのように鍵がかかったり、ドアノブも無いが、 だれかが聞き耳を立てようと外にいるとすぐに解る。外の光を通し、虫の音色を通す。季節を感じることが出来、自然と一体になれる。もし、障子の枠をとってしまったら紙が貼れない。  障子から紙をとってしまったらそれはもはや障子とは言えないだろう。
何も無い一歩手前のデザイン。それが日本のデザインであった。
そういう物は現在では不便とされる。しかし、そういう何も無い事が日本人の生活の感性にあっていた。シンプルで究極の美だったのだろうと思う。
しかし今の日本の商品は、付け足すデザインになってしまった。あれも出来る これも出来ると、機能が沢山ついていなければならない。 例えば携帯。使いもしない機能がべたべたとついている。または、マイナスイオンを作り出すエアコン。マイナスイオンは科学的には何もありません 健康的でも癒しでも何でも無い。開発者は十分解っていたはず。なのにそんな機能までついている。高度成長期の大量生産で確かに日本は豊かになったが、価格競争によってそれはもう豊かさの象徴では無くなってしまった。
何かが狂って来た日本のデザイン

奥山さんはピニンファリーナをやめ、地元の山形に帰ってきた。やめた理由はピニンファリーナに在社していたら経営をやらなくてはならないから。奥山さんは経営者ではなく、クリエイティブな仕事を一生やりたかったから日本に帰って来たと著書で書いている
そして、日本人として日本のデザインをやりたかった。 イタリアで学んだ事は、土着に密着した文化を育てるデザインだったから、イタリアではなくとも、山形でもそれは出来るはず。いい伝統が沢山山形にはあるんですよと著書で主張している
やりたい事はそれはフェラーリでも山形の鉄瓶でも同じだと言う。 足し算のデザインではない引き算のデザイン。これをとったら何も無くなるという日本人の切り捨てる美をデザインして行く。 それは僕にはかなりうらやましく、そして共感を感じる。日本の美の普遍性をデザイン出来たらと僕も強く思う。デザイナーが仕事として生活を支える為に食べて行くデザイン。
そこにいかほどの価値があるのか?価値のあるデザインとは何か?考えさせられる。